Working for Peace

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アジャ・リンポチェ8世とふたりのパンチェンラマ11世

5月29日(火)、アジャ・リンポチェのお話を聞きに、調布の先の外語大学へ出向く。

アジャ・リンポチェ8世はSHRIの支援先、アムドで一番大きなお寺、クンブン寺の僧院長で、
1998年、アメリカへ亡命された。
クンブン寺は、ダライ・ラマ法王率いるゲルク派の始祖ツォンカパ大師のゆかりの寺。
ツォンカパ大師の誕生の地に建てられたこのお寺は、チベット6大寺のひとつである。

大師が生まれたその場所から、緑の芽が出て、一本の大樹にまで成長し、それは今も大切に守られている。

この日、アジャ・リンポチェは、なぜ亡命したかという貴重なお話をしてくださった。




アジャ・リンポチェ8世は、2歳の時に7世の転生者として認められた。
当時、クンブン寺に滞在していたパンチェン・ラマ10世が
彼を転生者として認めたものの、
パンチェン・ラマの師が、「本来の方法によって選びなさい」と指示。
再度、試みる。

チベットの主食「ツァンパ」(大麦にミルクティー、砂糖を入れてお団子にした麦焦がし)の中に
3名の候補者の名前を書いた紙を入れ、器に入れて黄色い布をかけ、数日、お祈りをする。
数日後、それぞれの器を降るのだそうだ。
器からポ~ンと外に飛び出したツァンパの中から紙を取り出す。
中から紙を取り出すと、アジャ・リンポチェ8世の少年期の名前があった。
つまり、同じ結果だった。

アジャ・リンポチェは、1958年、クンブン寺で学び始めるが、宗教弾圧が続き、
2000~3000名いたお坊さんの中から多くが逮捕され、
僧衣を脱がされ、俗人の姿をさせられ、強制労働をさせられた。
一般の学生扱いを受けるなかで、ますますチベットの状況は悪化していく。

17才の頃、文化大革命がスタート。労働者として働く日々が続く。
毎日、毛沢東の写真の前で挨拶させられる。
一生懸命働きます。今日、よく働きました、と。
畑にまで写真は持ち込まれ、トイレに行く際も、
写真に一言断って行かねばならなかった・・。


食べ物もなく、人権もなく、苦しい状況の中で、
チベット人は、誰も怒らず、食べ物の奪い合いもおこらなかった。
牢獄にも労働場所にもたくさんのリンポチェやゲシェがいて、
常に仏教的なアドバイスがあったという。

(本当の美徳、慈悲、そして知性とは、こういうことを言うのです。
どんな状況でも正気を保ち、冷静でありつづけたチベット人の知性の高さに敬服します。)


1980年、緩和政策で寄付も集まり、お寺が再開された。
クンブン寺に戻られたアジャ・リンポチェは、
周りのチベット人の暮らし向上のために多くの貢献を果たしてこられた。
中国政府との折り合いをつけながら、災害対策、伝統医学の継承、初等教育の充実などに成果をあげ、
アムドのチベット人やモンゴル人から広く慕われた。

アムドのクンブン寺の総院長のアジャ・リンポチェは、
「高い地位を与えられたけれども、犬のような扱いをされることもあった」とおっしゃる・・・。

さて、アジャ・リンポチェがなぜ亡命したかという話はここから核心に迫る。

パンチェン・ラマ11世の後継者は2人いることは、皆さんもご存知と思う。

ダライ・ラマ法王とチベット政府がパンチェン・ラマ11世として認めた少年デンゥン・チューキ・ニマ少年は、
告知された翌日から家族ぐるみで行方不明となり、
いまだに消息不明である。

中国側がパンチェン・ラマを選び出す際に、アジャ・リンポチェは同席を求められ、
北京からチャーター機で重鎮たちとラサに向かい、ポタラ宮にて選択の儀式に立ち会った。

棒にそれぞれの候補者の名前を書き、布にまき、棒は金色の壷に入れられた。
中国当局の重鎮がその中から、一本の棒を引く。
するとその棒に書かれた名前の少年が、次代のパンチェン・ラマ11世だというのだ。

アジャ・リンポチェは、帰りの飛行機の中で、こんな言葉を中国の役人から聴いた。
「リンポチェ、気がつきましたか?棒の長さが微妙に違っていたんですよ。
下に布を置いて高くしたんです。良い結果になって本当に嬉しい」と・・・・。

そして、アジャ・リンポチェは、中国側が選んだパンチェン・ラマの教育をまかされることになった。

アジャリ・ンポチェはこうおっしゃる。
「仏教のしきたりに従って選ばれたなら、私は彼をサポートしたでしょう。
しかし、まったく違うやり方で中国はパンチェン・ラマを選びました。
私はそれを受け入れることができず、アメリカへの亡命を決意したのです」。

アジャ・リンポチェは、自分が体験した歴史を残すため、
つまり中国がやったことを身体を張って告発するために、亡命し、
そして昨年、自叙伝を出版された。

『SURVIVING THE DRAGON』



(アジャ・リンポチェの伝記の翻訳を望みます!どなたかぜひ!)

なお、前世アジャリンポチェ7世は、明治時代に日本に表敬訪問され、皇室にもお会いされている。
その時、日本の多くの寺院やお坊さんたちから熱狂的に迎えられたという新聞記事が、
数多く残されているのも事実です。

アジェ・リンポチェはおっしゃる。
「私は中国人もチベット人もモンゴル人も互いに争わず、仲良く共存できる世界になることを望みます」と。

いま、リンポチェは、アムドに貢献できない代わりに、ダラムサラの図書館に寄付し、
僧院にベジタリアン用の食材を送っている。
そしてモンゴルのウランバートでは、子どもたちのガンの病院を作る為に寄付を募っている。
「私はお寺で祈っているだけではなく、実際に活動したい」。そうおっしゃる。


この日、会場にはモンゴル人やアムド出身のチベット人が多く、
ひとりのアムドのチベット人がこう言った。

「昨日、両親に電話し、明日アジャリンポチェにお会いする、と伝えたら、
母が泣き出しました。
チベットにダライ・ラマ法王はおらず、アジャ・リンポチェまでいなくなってしまった。私たちは、悲しくて泣いています」。

その言葉に、もらい泣き。。。
アジャ・リンポチェの瞳も潤んでいた。

ぐすっ。
本土のチベット人を思うと泣けて仕方ない。。。

アジャ・リンポチェにご挨拶した後、
アムド出身のチベットの若者たちがアジャ・リンポチェを囲んで
嬉しそうに写真を撮っている様を見ながら、また涙、涙、涙。。。

リンポチェの思い、そしてチベット人やモンゴルの人々の思いを感じるたびに、
涙が溢れでる。


gift fom arja rinnpoche

私はアムドの若者たちの教育支援をしている。
そのため、アジャ・リンポチェに数年前、謁見させていただいた。
クンブンのお香を差し上げ、アムドの写真をたくさん持参したところ、
懐かしそうに写真を眺めながら、いろいろお話くださった。

この時、アジャ・リンポチェから三法の置物と、翡翠の観音様のペンダント、そして黄色のカターをいただいた。
それは、法王様の写真の前に置かれている。

それは、仏教の教えとアムドと私の魂を結びつける、「慈悲」という名の宝物である。

アジャリンポチェ修正






*photos by Noda & Tashi




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不安から解放されるには?

先週末、『知的理解による心の解放』というセミナーを受けてきました。
講師は、アムド教育支援プロジェクトSHRIを支援してくださっている医学博士の林良樹さん。
科学的見地から、「不安が起きる仕組み」、「不安が身体、行動に及ぼす影響の神経学的な解説」、「放射線”に対する不安と安心の考え方」という内容でした。
 
遺伝子は日々の運動や呼吸やストレス、光、電磁波などで傷ついていること。しかし、常に傷は修復されていること。
がん化は、幾重もの僅かな可能性の掛け合わせの確率的現象だということ。

原子核が崩壊して放射線が出るのも、またミクロの世界の法則である量子力学、不確定性原理に従って起こる確率的現象にすぎないこと。

放射能に対する不安を抱える現代にふさわしい内容でした。
ひとつの原因が、ひとつの確実な結果をもたらすものではなく、

つまりこの世は、もともと不確定なもの。

不安から解放されるには、もともと不確定な宇宙の中を生命は生きているのだということ。

そのおおらかな視点が、不安を解消するのだということを伝えてくれました。

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マリッジリング、金環日食!

今朝は、平安時代以来の金環日食を堪能!

6:19amに太陽がどんどんと欠け始め、
あたりは薄暗くなって、寒くなり・・・・・、
太陽と月と地球がピッタリ重なった瞬間、
7:31amに太陽が美しい黄金のリングに変化!
そして7:37amに最大のゴールデンショータイム到来!




静かに結跏趺坐し、グラスを片手に、瞬間瞑想。

脳裏に美しい光のリングが焼き付きました。

まるで、宇宙が創り出したマリッジリングみたい。
すごかった~。


光はさらに形を変えてゆき、やがてリングは消滅。
太陽が月の陰から顔を出し始めました。

ほんのつかの間の出来事。

すべてはとどまることなく水のように、幻のように流れていく。

そして、同じ瞬間は、ふたつとしてないのだと、実感。

それは、「この瞬間を生きよ!!」ということ。

すぐ仕事に出かけたのだけれど、食が終わる9時過ぎまで、脳裏にリングが焼き付いて、
仕事中にもず~っと心身、ここにあらず状態に。

いつもと違う宇宙のエネルギー、天から引っ張られて、ふわ~っとしちゃって、
完全に天体ショーが終わってから、ようやくグランディング。

日食は9:02に終わってるけれど、
私が「ああ、終わった~」とため息をついたのは、9:30を過ぎてのことでした。





平安時代の人はどう思ったんでしょうね?

宇宙の大きなサイクルの中で、生かされている私たち。

そう、「サイクル」といえども、まったく同じ繰り返しは、ひとつとしてない。
たとえ同じような日々を過ごしていると思っても、
たとえ毎日同じルーティンワークに飽き飽きしていても、
本当は同じものはふたつとしてない。
常に宇宙も太陽も月も地球も、私たちも水のように流れ、
風のように、幻のように変わり続けている。

出会うものは、常に新しい!

新しい瞬間の連続を生きていくのだな、と実感した今日。
仕事はいつも以上に快適に運び、
心身もぐ~んと軽やかになりました。

貴重な天体ショー!
「金冠日食」が教えてくれた宇宙からのメッセージ。
しっかり受け取りました。

生かしてくださり、ありがとうございます♪















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未来のために森を作ろう!

2012.3.11ら、約1ヶ月半。
再び、岩手県大槌町へ。

生態学者の宮脇昭教授が提唱する「東北沿岸300キロの防潮堤の森作り」に参加し、
3000本の苗を植樹してきました。

植樹1


宮脇教授(横浜大学名誉教授)は世界1700カ所に4000万本を植林して来た方。
環境関係のノーベル賞と言われる「国際環境賞・ブループラネット賞」を受賞されている。
宮脇教授

震災後、宮脇教授は瓦礫を使った森作りを提唱。
穴を掘り、土と混ぜた瓦礫を入れ、マウントを作る。
そこに、土地本来の照葉樹を植樹する。
20年もたてば、大きな森となり、たとえ津波が来ても波を破砕し、その力を弱めるという。
その森は、次の氷河期までの9000年間も持続する森になるのです!!

パネル1

パネル2

植樹する木は、針葉樹ではなく、照葉樹。
日本古来の森の樹、タブノキやシラカシなどの照葉樹は根がまっすぐ地下へと長く伸び、
瓦礫を抱え込んで成長するため、大きな津波にも耐える力がある。

針葉樹は根が浅いため、
陸前高田の松林は防潮の役目を果たすことなく、大津波に押し流されてしまった。

 
宮脇教授は、震災後すぐに陸前高田市に行き、流された松を視察。
教授は無惨な松の様子を見て、自分が提唱してきた森作りがこれから役立つことを確信した。
さらに教授は数年前に自分たちで植えた仙台の樹木がどうなったかを視察。
彼らが植えた樹木は倒れることもなく、元気に生きていた。
 

今、宮脇教授は、東北沿岸300キロに森の防潮堤を作ろう!というプロジェクトを構想している。
私がそのプロジェクトを知ったのは2月のこと。
永田町の経済産業省の一室で行なわれた講演会を拝聴し、
82才の宮脇教授の真剣な情熱に心打たれ、このプロジェクト参加を決めた。

さらに、大槌町長と懇意にしている私の友人が、宮脇教授を大槌町長に紹介したことがきっかけで、
大槌町の川沿いに森を作ることになった。

今回が沿岸300キロ森作りプロジェクトの第一歩。
モデルケースとなるこの植樹式の主催は宮脇教授。
共催は宮脇教授と共に「千年の杜作り」を進めている(株)横浜ゴム。
式に列席したのは、環境省大臣、細野   と前大臣、細川さん。
そして、F1ドライバーの片山右京。

ちなみに、協賛は津軽三味線の黒澤博幸が率いる「黒澤会」!!

宮脇教授は良き日本人の魂を持つ方。

「モノや札束や情報に右往左往している時代だが、一番大切なのは、命。株券ではない!」
と、全員に喝!!

「今、政府は被災した人たちに高台に住めというが、人類はもともと川沿いに文明を築いてきた。
川沿いが生きやすいからだ」


細川元大臣:
「瓦礫が無くならなければ、復興もできない。
以前、私は宮崎の空港辺りに森を宮脇教授と作った経験がある。
瓦礫を活用するのはこれが初めてではない 。
大戦後、ベルリンの下には戦車が埋まっている。横浜の公演の下にも戦中の瓦礫が埋まっている。
5月21日に財団が立ち上がる。シイ、カシなど1億本植えていこうという案を、野田総理に伝えた」

ブラボー!

環境大臣
細野環境大臣:
「静岡で瓦礫を受け入れることになった。瓦礫に関する法律があるが、これを乗り越えていく。ここでやれたことを東北で生かしていきたい。森と共に再生していく町を見たい」



政治家や企業を動かす宮脇教授の熱意に感動しつつも、
式典が終わると、 町のボランティアスタッフと共に、さっそく植樹。

会場には、タブノキ、シラカシ、ウラジオガシ、アカガシ、ヤブツバキ、シロダモ、ヤマザクラ、ヤマモミジなど全16種類の木の苗がたくさん用意されていた。

植樹2

苗は、ドングリから育てたもの。
その苗をポットから出し、丁寧に土へ植え、上からワラを敷き詰める。
ワラが風で飛ばされないよう、縄で抑えていく作業も皆で協力しながら進めていく。
ワラを土にかぶせることで、水やりの必要もなく、雑草も生えずらくなるそうだ。
2~3年は雑草取りが必要になるが、その後は木々の根は瓦礫を抱え込みながら下へと伸び、
緑の葉を茂らせ、森を形成していく。

植樹3


私の足下に眠るのは、大槌の方々の大切な思い出。
それは人々の記憶であり、命のかけらであり、遺品である。
私たちは黙祷してからマウントに立ち、未来の森を植えた。

植樹4

今、日本には、古来の森は0.6%しか残っていない。

照葉樹の森を再生すれば、土砂崩れも防ぐだろう。
木々の実が豊富になれば、クマやサルが里に下りて来ることもなくなるはずだ。
しかも豊かな森から海へと流れる水は栄養を蓄えているために、
海にはたくさんのプランクトンが生まれ、魚もイルカも寄ってくる豊かな海にもなる。
森は、海にも関係している。


様々な思いを胸に植樹していると、津軽三味線の音色が聞こえてくる。
「まるで田植え歌みたい」とワラを敷きつめながら思う。
日本人はこうして田植えの歌を歌ったり、歌を聴きながら、稲作をしてきたにちがいない。
何もかも忘れてしまった日本人・・・。
どこかに大切なものを置き忘れてきちゃったね・・・。
ワラの温もった香りと三味線の音色が、過去と未来へ意識をトリップさせる。

黒澤会


「地球に住む人間は、故郷の木に寄る寄生虫のような立場でしか生きていけない。
そういう当たり前のことを忘れて、まだ足りない、まだ足りないとあくせくしている間に、
一番大切な命、2万人近い命を震災で失った。
亡くなった方の魂を敬い、生き残った方には、伝統的な”鎮守の森”のノウハウを用いて、
未来志向で命の森を作ってもらいたい」                                
宮脇昭


以下、必見です!

2011.4.8
宮脇教授、被災地にて
http://www.youtube.com/watch?v=M3BENrrhJJM

命を守る森づくり
http://www.youtube.com/watch?v=M3xDaV0BugU&feature=related

2012.2.26 テレビ
http://www.youtube.com/watch?v=sdfcnkKl40c&feature=related

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